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Posted by チェスト at

2014年02月11日

見えるものと見えないもの。


目に見えるものと、見えないものと、どちらが面白いでしょうか?


例えば、テレビは世界のあらゆるものを映し出してくれますから、「深海魚の生態」や「オリンピック選手のパフォーマンス」などは、実際に目で見てこそ面白いものです。


一方で、「故人」は見えませんので、生前の記憶や言い伝え、遺影を通して想いを馳せます。

「時間」も見えませんが、見えないからこそ、長く感じたり短く感じたり、感情が左右される点は面白いかと。

また、奥ゆかしい女性は、控え目に振る舞い、相手に多くを見せません。
そういう人は、良い意味でモテます。



見えないものとは、確信できないものです。

不確かなものは、想像で補わなければなりません。


確証が得られないからこそ、「もっと見たい、聞きたい、知りたい」と面白く感じるのでしょうか。





見えないものの一つに「電気」があり、「気」があります。

「気」とは何か?
説明しようと思う本人も、よく分かりません。

これもまた、見るものではなく、感じるものだからでしょう。


鍼灸や柔道整復の治療家のお言葉を借りれば、人体にも微弱な電流が存在し、それを気の通り道(経絡[ケイラク])というのだそうです。

この経絡は、スムーズに流れるとき、体調は良好となり、疲労や障害、ストレスによって流れが渋滞したり壊れたりするとき、体調は崩れるのだそうです。


治療家は、痛みの箇所とは遠く離れた指先をさわるだけで、痛みや凝りを軽減します。

なにぶん目に見えないので、患者側は自分の体に何が起こっているのか確認できないのですが、体調は確かに良くなっています。


治療家はこうおっしゃいました。

「気の流れは目に見えないので、治療は難しい。一方で、目に見えないからこそ面白い。」

「気は伝播する。
末期癌の患者と相対するときは、集中力を保たなければ、治療家も体調を崩してしまう。」

逆に言えば、良い気もまた伝わるのでしょう。

楽しそうな人やノリにのっている人には、自然とそばに近付いていきたくなります。


視力に頼らずに感じるという点では、ランニングも同じく見るのではなく感じるものなのかなと思います。


ここから、小難しい話になります…。


やはり目に見えないものの方が面白いと思うのですが、逆に見えるものが在るからこそ、見えないものを意識でき、魅力的に感じるのだと思います。

ということは、見えないものを感知・受容するために、まずは目に見える現象を数多く経験しなければなりません。
裏を知るためには、表を熟知しなければならないからです。

さらに、その表裏は一体であり、見えないものとは、実は無く、見えないと思い込んでいるだけなのかもしれません。

見えなくても、何か良い感じがしたり嫌な気分がしたり…それは実は感知しているということです。


単にその錯覚に面白みを覚えているのだとしたら、私はまさに「頭の上にあるメガネを、探し続けているのび太くん」状態ということになります。

灯台もと暗し状態にあるのび太くんは、メガネを体に身に付けていながら、メガネの位置がどこか分からず「メガネメガネ…」と、さまよい歩くのです。

私も「気」が巡る体を持ちながら、「気」は何かわからないと思い込んでいるのでしょう。


そういう意味では、治療家にはきっと「気」が見えているのだと思います。

それが見えるようになるためには、「気」が表面化した「眼前の症状・精神状態」をひたすら見続けることが必要です。

現象を見続けることで、目に見えない「気」の存在を信じることができるようになるのでしょう。


ひいては、目に見えないものを信じることができる人は、眼前の現象を目を逸らさずに見続けてきた人だと言えるのではないでしょうか。

好奇心だけはあっても、目に見えるものだけしか信じられない自分を脱し、より大きな人格を作るために、あらゆるものを観察していきたいものです。

  

Posted by らじうむ at 23:44Comments(0)