2014年09月15日

水の東西。


高校の教科書に取り上げられている作品です。


水の東西 山崎正和


日本庭園の「鹿おどし」と西洋の「噴水」を比較し,日本人の感性を主張した評論です。

自然に流れる水と,人為的に噴き上げさせる水。
時間を感じさせる水と,空間を感じさせる水。
見えなくても趣を感じさせる水と,見せて感動させる水。


つまり,日本人は自然のまま手を加えないものを好み,対象が見えなくても音や匂い,気配で感じることをよしとするようです。


高校教科書では,この二項対立が重視され,高校生に「比較すること」の大事さを説いています。

海外文化と比較しなければ,日本人の感性を強く実感することはできません。

西洋の噴水と日本の鹿おどしを比べることで,日本人の特性が際立って見えてくるのです。

AとBを比較し,当たり前のものを当たり前と思わないことから思考は広がります。


私はこの比較思考に共感します。

自分と何かを比較すると,人間の幅や大きさが浮き彫りになります。
大概の青少年を例に取ると,他者の外面や服装を見て,自分の外見と比較し,他者と自分の服装はかけ離れていないか,また,似すぎていないかを確認し,付かず離れずの程よい個性を求めるものです。
それを個性といって良いのかどうかは疑問が残りますが,少なくとも本人にとっては他者との比較によって服装のオリジナリティを求めようとしているはずです。
そして,彼ら彼女らの服装は,比較が繰り返されることで洗練され,やがて似たような格好に落ち着いていくのだと思います。



服装と同様に,精神や思考の比較も日々実践しているものです。


「あの人は気に入らない」と思った100人中に1人だけ,思考転換できる人がいるものです。

「あの人はきっと,私自身の嫌いなところか,もしくは足りないところを映している鑑なのだ」というように。


そのような広い視野や,寛容な精神と出会ったとき,自分の世界の狭さを痛感します。
否が応にも,相手と自分の精神が比較されるからです。

但し,それは程よくレベルが近くないと比較できないと教えていただきました。

ジョガーとオリンピアが互いに無関心なように,月とすっぽんの格差があると,あきらめや興味の薄さから,憧れや畏敬の念は生まれるでしょうが,まず自分と比較しようと思い立ちません。


比較できる相手がいるということは,有難いことであります。
今のところ,私にとっての比較対象は妻や同僚です。




喜界島の黒糖焼酎 「朝日」


水の東西。


最近何かとお騒がせな「朝日」でありますが,こちらの朝日は,冷やしても温めても美味しい朝日ですのでご安心を。



Posted by らじうむ at 22:10│Comments(1)
この記事へのコメント
はじめまして

高校で国語を教えている者です。
とてもわかりやすい記事だと思います。

私、
 若松若水の今風徒然草「紙風船」
 https://ameblo.jp/19571957ker/entry-12307135798.html

というブログをしておりますが、
9月16日(土)の記事で、この記事のリンクを貼らせていただきました。

ありがとうございました。
Posted by 若松若水 at 2017年09月16日 04:10
 
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水の東西。
    コメント(1)