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Posted by チェスト at

2014年09月30日

彼岸過迄。

夏目漱石は,後期三部作の一作目。
大病を患った後の最初の作品だそうです。長編ですが,読んでみたい一冊です。





彼岸花の時期です。


辞書を引くと,「曼珠沙華は,見る者の心を柔軟にする」とありました。


頑なである今こそ,このような輝かしい語義との出会いがあるものです。

向こう岸に居られる方々は,日々彼岸花をご覧になり,柔軟な心をお持ちであります。

則天去私よろしく,私も彼岸へ一刻も早く渡り,柔軟な思考を手に入れたいものです。


彼岸参りには,先祖の方々に対して,胸を張って誇れる生き方ができているか反省させられる良い機会を頂きました。

私の「時間を守れないところ」を見て,ご先祖様もきっと首を傾げていることでしょう。

自分自身の至らないところを教えてくださり,難を避ける道を歩ませていただき,またお礼の言葉に。
真の意味で彼岸へまた一歩近づく,よき彼岸参りでありました。




呼び名は知らねど,過ぐるにたえず。



  

Posted by らじうむ at 21:10Comments(2)

2014年09月15日

水の東西。


高校の教科書に取り上げられている作品です。


水の東西 山崎正和


日本庭園の「鹿おどし」と西洋の「噴水」を比較し,日本人の感性を主張した評論です。

自然に流れる水と,人為的に噴き上げさせる水。
時間を感じさせる水と,空間を感じさせる水。
見えなくても趣を感じさせる水と,見せて感動させる水。


つまり,日本人は自然のまま手を加えないものを好み,対象が見えなくても音や匂い,気配で感じることをよしとするようです。


高校教科書では,この二項対立が重視され,高校生に「比較すること」の大事さを説いています。

海外文化と比較しなければ,日本人の感性を強く実感することはできません。

西洋の噴水と日本の鹿おどしを比べることで,日本人の特性が際立って見えてくるのです。

AとBを比較し,当たり前のものを当たり前と思わないことから思考は広がります。


私はこの比較思考に共感します。

自分と何かを比較すると,人間の幅や大きさが浮き彫りになります。
大概の青少年を例に取ると,他者の外面や服装を見て,自分の外見と比較し,他者と自分の服装はかけ離れていないか,また,似すぎていないかを確認し,付かず離れずの程よい個性を求めるものです。
それを個性といって良いのかどうかは疑問が残りますが,少なくとも本人にとっては他者との比較によって服装のオリジナリティを求めようとしているはずです。
そして,彼ら彼女らの服装は,比較が繰り返されることで洗練され,やがて似たような格好に落ち着いていくのだと思います。



服装と同様に,精神や思考の比較も日々実践しているものです。


「あの人は気に入らない」と思った100人中に1人だけ,思考転換できる人がいるものです。

「あの人はきっと,私自身の嫌いなところか,もしくは足りないところを映している鑑なのだ」というように。


そのような広い視野や,寛容な精神と出会ったとき,自分の世界の狭さを痛感します。
否が応にも,相手と自分の精神が比較されるからです。

但し,それは程よくレベルが近くないと比較できないと教えていただきました。

ジョガーとオリンピアが互いに無関心なように,月とすっぽんの格差があると,あきらめや興味の薄さから,憧れや畏敬の念は生まれるでしょうが,まず自分と比較しようと思い立ちません。


比較できる相手がいるということは,有難いことであります。
今のところ,私にとっての比較対象は妻や同僚です。




喜界島の黒糖焼酎 「朝日」





最近何かとお騒がせな「朝日」でありますが,こちらの朝日は,冷やしても温めても美味しい朝日ですのでご安心を。
  

Posted by らじうむ at 22:10Comments(1)

2014年09月08日

百日紅。


実家に咲いているサルスベリです。

ランニング前に,いつも愛でております。


「百日紅」と名付けられるだけあって,雨風が吹く日を経ても花が長持ちしています。


滑らかな木肌が由来とされる,このサルスベリという名前が私は気に入っています。


猿も木から落ちる。
河童の川流れ。
弘法も筆の誤り。

上級者や人の上に立つ者も失敗することがある。
だからこそ,人前に立つような立場や境地に至っても気を抜いてはいけない,というふうにも受け取れます。

私にとっては…
教師も試験に落ちる。
教師も我欲に流される。
教師もチョークの誤り。



教師としての地位におごり傲慢になる自分が,つい出てきます。

先日,知人の子どもに意見表明の大切さをしつけようとして,やや厳しく当たったことがありました。

しかしその子とは,厳しく接しても離れることがないほどの厚い信頼関係を築いておらず,その親とも十分なコミュニケーションをとっていません。

私の立場から厳しく指導することは不適切だと教えていただきました。

主な原因は,自分の分相応や立ち位置を深く考えないこと。
そして,教師の指導癖を意識せずに出してしまったことでした。


社会的には教師と言われても,人間的にはまだまだ育てられなければならない初心者なのだと思うくらいが丁度良いと思わされます。

育てられ,育て,教えられ,教える。
教師は,なかなか面白い職業であります。



百日紅曰わく、
「滑って擦り傷を負っては学び,大滑りして骨折しないように注意せよ」


  

Posted by らじうむ at 08:34Comments(0)